辻井喬 (つじいたかし。本名、堤清二。) 『憲法に生かす思想の言葉』より、要約。

辻井喬の本より、要約を載せます。

2008年。

憲法を改正しなければならない、という人達に、どこをどう?と尋ねても、はっきりした答えが返ってこないことが多かった。しかしどうも、本音は

「独立国は軍隊を持たなくては、独立は保てない」
「独立国は、軍隊を持たなくては、独立国と認められない」
「国連による侵略の阻止は、あてにならない」

ということらしい。
しかし、どれも現在の国際情勢で考えると正しくないし、憲法の本質である二本の柱、平和主義と主権在民、どちらも覆したいというのだから、憲法を撤去したいというのに似ている。間違っても改正とは呼べないだろう。更に彼らの言い分は、

「押し付けられた憲法だから直したい」

ということらしいのだが、これも白々しくおかしいのだ。日本国憲法は吉田茂と白洲次郎が苦労して折衝したもので、マッカーサーが提示した「三原則」以外に、特に押し付けはない。歴史の検証をすれば、すぐにわかることである。

復興に全てのエネルギーを注ぐために、また、戦勝国にこき使われてボロボロになることのないように、今後、軍隊を持たないということが世界の常識から考えても当然であった。このような事を希望していた日本(吉田茂・白洲次郎など)にとって

《 戦争の放棄という条件は願ってもない事だった。》

のであって、天皇の案件以外は押し付けられたものではないのだ。しかし、彼等は何のかんのと難癖付け、60年を経て再びどうしても軍隊を持ちたいと考えているのである。

経済に興味のある人間であれば、軍国主義には陥らないはずだ。日本は食糧の自給率も低く、輸出品の生産ラインまで海外に多く持つようになっている。燃料資源や鉱石がないのは言うまでもない。

平和憲法が前提になって成り立っている国際関係の中でのみ、順調に生きられるのである。戦争を肯定する国になれば、そういった国際社会での日本の信用という大前提が崩れてしまうのですから、軍事国家を復活させたいと考える政治家は経済には大変無関心でセンスがないのかな、と言わざるを得ないのではないだろうか。

というわけで、日本が残存して行くためには、軍隊を持とうとか、九条を変えようとかいう議論は、非常に危険だという事になります。

小泉純一郎元首相の元で、竹中大臣の金融財政政策は、外国のファンドに「日本で自由に活動してください」と、グローバリゼーションを展開しました。しかし、アメリカの911以降に施された奇怪な政策に似て、ハゲタカファンドと言われる人々の潤いを除き、全国的に大きな収入格差が広がってしまいました。構造的にどのよ
うな仕掛けがあったのかわかりませんが、細部の発展形は悪ノリに似ていました。約7割の国民が将来に不安を抱き、自民党は敗北を喫しました。

安倍首相は、おじいさん(60年安保の岸首相)の仇だと言って、戦後レジームを一掃したいとかいいだしましたが、私達がしなくてはいけないのは、戦後レジームをしっかり固めることで、民主主義が本当に強くなるためには自分の判断で意見をはっきり言える人を本当に増やさなくてはならないのです。

ですから選挙は本当に大切です。みめかたちで選ぶ私情や、お父さんの義理、社長の義理、などで投票してはならない。自分の権利を行使できるまたとない機会ですから、自分の政治的な考え方を反映させた投票を行わなければ意味がないのです。主権在民とは、変える力を我々が持っているという力強いことなのです。

これから明治の弾圧レジームに戻ってどうするのですか?これは大変な間違いと言わざるを得ません。悪くすると、日本は敗戦前よりも惨めな状態になる危険すらあります。今後急いでしなくてはいけないことは、生活の最低保障(シビルミニマム)を要求していくことです。

シビルミニマムをしっかりと要求していくことによって、戦闘機を用意する費用は国から捻出できなくなります。それこそが、平和憲法を維持することにも繋がるのです。ですから皆さんは税金を納めている以上、自分の生活の立場から本当に必要だと思うことは自信を持って言わなくてはなりません。

我々は今までの所得が目減りしないように頑張る必要がありますし、それでも経済社会が危うい様相を見せてきたらシビルミニマム、セーフティネットの社会保障が大変重要になります。環境など生命への安全確保も同じく求めて行く必要があります。それは頑張らないと、国でさえも、親切さを維持してくれるものではありません。この活動はそして、平和憲法を維持する活動と平行できるものであり、シナジー効果が齎されるものです。

軍国主義者や独裁思想に世論が懐柔されないようにするには、罠でさえあった固定観念や、恣意的であった謳い文句から自由になる必要があります。例えば、二項分類の方法は、細部を切り捨て、本来複雑さに耐えうる思考を、不自然に歪めてしまいます。相手の言いなりに誘導される危険性が極めて高く、足を掬われがちです。本来バッティングするはずのない物事を、あえて対立させて、二者択一で自分の論理に引きずり込もうというのは汚い論争のやり方ですし、それを評価の対象にされては深刻な事態が生じるでしょう。

あれかこれかではなく、あれとこれとの間の中間地帯は非常に広いものがあり、その中から主権在民と平和主義に相当するものをどのように見付け出し、実行の対象にしていくかという事こそ、本当に建設的な議論なのです。

今の世界は、市場経済原理主義と、自由競争主義という怪物が、「グローバリゼーション」という名で徘徊しています。今、言われている「改革」は、本当は日本のためではなく、巨大資本が日本を席巻するために、《障害になるものを無くしておこう》という改革であることが多いのです。

それを表現としては「合理化である」とか「小さい政府を実現して大きな政府を無くす」とか言わせるわけです。すると人々の中のイメージは「小さい方が税金は安くなるかな」なんて感じになってくる。「官」を外せば経済が発展すると思い込んでいるのです。

しかし、無駄に何でも管理しようとする社会主義の大きな政府と、福祉の機能や、営利という衝動では十分に行えないものを補う人権と平等主義に基づいた「公的機能」を縮小することで最低限になった小さな政府、というのは二者択一に値する話題なのか?という根本的な話になります。公的機能自体が果たせないところまで財政難、人員不足、にするのでは、本末転倒も良いところで、最初から君の言うことは詐欺だったのか?という話になるわけです。だからそれは本当に改悪ではなく改正なのかと常々、徹底追求すべきであり、そういった主権を我々は有しているはずなのです。(憲法によれば)。国が国民生活の基盤政策をしっかりやってこそ、自由経済というものの効果が上がるのだと、アダム・スミスの時代からわかっている(よく勉強していない政治家は知らないのかも)

だから、一見 、良い仕事ちっくな、「改革~♬・改正~♬」なんて言われましても、ましてや、法案の名前にしろ、タイトルだけで中身を想像して安心してはいけません。

ただ本当は、圧倒的多数の人々が、今の憲法の元で将来を考えているということなのでそれが頼みの綱でしょう。しかし当たり前にあることとしてノンビリしていると、段々と削られて行く。性悪説ではないですが、主張しなければ福祉に使われるお金は次第に減らされて行きます。基本的人権も、恒久的と思っていたものが侵食されて行きます。

おそらく憲法を変えたいと思っている人達も、すぐに変えられるとは思っていませんが、その前に、外堀を埋めておくことを一生懸命やろうとしています。その一つが『教育基本法』の改悪です。あと、共謀罪。共謀罪では何か物事を起こそうとして声を掛けただけで共犯としての罪が生じる。或いは個人情報保護という美名に隠れて、個人情報を「官」が押さえてしまおうとする。

そしてニュースソースは秘匿してはならないものなのですが、『秘匿を許すと、国家機能が流出して国益を害する』と主張する人達がいる。(特定秘密保護法案) これは言論・表現の自由を抑えてしまいますが、こういった一連のものをせっせと準備しています。

そして、法律的に外側を埋めようとしているだけでなく、社会の雰囲気をどうしても、「根本から変えないといけない」と人々が思うように持っていこうとしているのです。あの人なら改革してくれるだろうとか単純に他人任せに思ったら本当に危ないですよ。


ひとつは、伝統の力を軍事肯定に使われた経緯があるため、私達が心の防波堤とすべき、伝統を、遠ざけてきたことにも弱味があるのです。それを一回ゼロ戻して、より本来の姿で取り込み直すこと。

伝統は民族の誇りと知恵の宝庫です。例えば日本人の優れた資質は、他人の立場にたって相手の心中を察すること。日本人は非常に客観性や第三者による評価を考えることのできる資質に優れています。だから歌舞伎や能、俳句や和歌という演劇形式が廃れないわけです。その能力は大切にした方がいい。

愛国心、というのは私の世代では「もうたくさんだ!」と、抵抗感が生まれる場合も多いです。何故なら軍部に強制派兵と強制労働を強いられる言葉だったからだ。でも、そうでない人もたくさんいる。自分の故郷を愛する気持ちは本来自然なものであり、他者から強制されるものではありません。自然な気持ちの上に、色々な社会システムや産業、そして文化を積み上げていくべきなのです。

我々に課せられたタブーとはどのような理由で作られてきたのか。本当はどうなのか、そこを見抜くことと、乗り越えること。

私達は「人間の美しい力」を、自分の手に持たなければなりません。美しい力、とは、敵を味方に変える力です。これは人間だけが持っている力です。どうしたらいいかというと、相手と共通する言葉を見つけること。伝統でも、美意識でもいい。とにかく話を聞いて貰える素地を出すのです。そして、《 騙されない、本物はこちらが持っているのだ》という気概を持って言葉を使うことです。

例えば文学は、軍人の剣を収めさせることもできるし、嫉妬に怒り狂って罪を犯す寸前の人間を止めることができる。各々の芸術には本来、そのような心に働きかける力があります。これをファシズムに使うべきではなく、人間が人間である所以の思想の発露に使うべきだと思うのです。そしてその思想に天や地が同調すれば、何かしかの大きな効果が起きる。


良い共同体というのは、人間の頭数として利用されてしまったり、団体であるが故に抑制されてしまったりすることがありますが、どちらかというと、《 騙されない、本物はこちらが持っているのだ》そんな風に自らを高めて行って欲しいのです。思想は美しい言葉を生むでしょう。言葉は力を生むでしょう。

よほど慎重に、正反対に見えるニュースも拾って自分で判断しないといけない。そしていつも、自分のいう言葉が相手にとって、どう響いているかということに気をつけてみないといけないかもしれません。

相手の立場に立って判断に客観性をもたせるために、感性の領域を広げて行く事が大事。これも人間の素晴らしい能力です。特に今の若者にはなかなかできなくなっているとのことですが、これは元々、日本人は高いレベルで持っていた能力です。

佐藤栄作がノーベル平和賞を貰ったのは、非核三原則を貫き通したからだと。まだ日本の信用はその程度なんだなと認識してもっと平和における信用を確立するべき。ただしこの際、沖縄密約に関してはまったく世界には伝わっていなかったのだろうということを考える必要があります。

つまり、これはマスコミが同じ方向へ流れるニュースだけを流していたということ。マスコミを名乗りながら、日本人が本来得意であるはずの客観性に乏しいといえば、乏しかったのです。

「ユートピアの崩壊」というと、ソビエトの崩壊と、アメリカのデモクラシーの崩壊、と、両方ありますね。日本の「豊かな国、ユートピア」というのは、実質、権威を失墜しています。

ソビエトの崩壊は、新自由主義からの罠だったとする側面もありますが、スターリン型の恐怖独裁政治と中央計画経済が崩壊したと考えるべきだと思います。社会主義にもいろいろありますので、社会主義そのものが無能であったというよりも、「スターリニズム」と「社会主義」そのものは区別して考えるべきだと思います。

アメリカンデモクラシーというのも、やはりユートピアの一つでしたが、欧州の悪意に金で買われた企業が人類や国民に対して宣伝力を背景に暴挙を行い、政府の福祉機能が衰退し格差が広がり、マスコミ他社会統制だけは恐怖政治的に強まって、あらゆる情報の内容が不正確で悪くなり、株式経済の元である評価基準が失墜し、完全におかしくなりました。

豊かになっても人間たちは幸せとは限らない。豊かさのなり方で、貧富の差が大きく開いてしまい、それで国が失墜したという面が大きいです。

今の日本の一人当たりの生活水準は、数字でみると非常に高いのですが、日本人が一番、自国の将来に対して絶望的であります。グローバリズムへの抵抗感は、回顧主義と言われますが、伝統と密接につながっているので人の心を捉えやすいです。

現実の変化がすごい勢いで進んで、それに文学が追いついていないと言われていますが、これは日常と文学との間に間隔があいてしまっているからかもしれません。なぜ、そのように日常に事寄せて、我々の抵抗感をなかなか書き著せないのか?ということになりますと、自分の知っていた日本の日常と言うのは、アメリカの情報の傘の下に完全に包まれていたものだったから、ではないのか、ということなんです。

9.11のことにしてもそうですが、我々はわかっていた積りで実はわかっていなかったことがあるようです。自分がいる状況を客観的に見直すということは、ですから、文学が日常と力を取り戻す第一歩ではないだろうかと思います。

日本の文学は、思想の言語をずっと失ってきている。思想を失った言語の跳梁は、しかし、それが日本の文学が現実から遅れる大きな足枷になっているのではないかと思っています。

でもほら、憲法の中には思想があります。日常的な美学を映し日常を守る思想がね。。。



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