新・風姿花伝~素敵な文見つけた


MIXIに世阿弥のコミュっていうのがあって(私ったらなんでまた)
そこで素敵な文を見つけました。
なんだか私達の疑問に答えてくれそうです。
この方もつらつらと書くうちに導かれたようです。

古来、「掛詞(かけことば)」は男女の取り交わす短歌の類を超えて
色んな宇宙や自然やらの謎を解く「鍵」であったというのは
あながち間違いではないのかも。



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新・風姿花伝
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画像



〈われ〉〈わたし〉〈このわたし〉は
同じこの〈私〉という物を指す同じ語であるようでいて、
それぞれ異なる音色を響かせる。違う意味の響きがそこに擦れ違う。

それは言の葉の意味の葉擦れであり、
微妙な〈外れ〉た意味の〈琴鳴り〉である。
琴鳴る意味のささやきを聴き分けるのは歌心である。

この〈琴鳴り〉は〈異なり〉とは異なる差異である。
〈琴鳴り〉の〈なり〉には〈風姿〉があり〈行作〉がある。
〈琴鳴り〉とは、〈琴の風姿〉である。

歌心は言の葉の木蔭に座り、
その緑陰の影の動きを透して目にみえぬ風の姿の来着を見分ける。

歌心はみどりの言の葉の飜りを見取り、その意を解し味わう。
だから全ての言の葉は〈翻訳語〉である。
言の葉とは声の風のなかに飜るものである。

〈声〉とは越えてくるもののことをいう。
つまりそれは〈超越〉である。
それは風の超越、つまり〈気越え〉である。

声が耳に聞こえるとは、
越えてきた風の超越が来着したことの知らせである。
それが〈気着き〉である。

それは風気の音擦れを通して〈誰か〉の訪れを教える。
声の風は、気越えて気着いた遥かなるものの風情を
〈風姿〉として人に伝える。

遥かなるものとは〈春の気配〉であり〈花の香り〉である。
〈花〉とは〈鼻〉に最初に匂い起こすものであり、
その香りのなかに咲くもののことを言う。
この香味を意味という。

意味とは〈花の香り〉である。
それは〈鼻〉に〈甘い香り〉となって
花咲くものでなければならない。従って辞書には乗っていない。

辞書とは〈舌〉に〈辛い〉過ぎ去った言葉の書き置きである。
そこには〈花の香り〉は抜け去っている。

言の葉の意味とは正しく〈風姿花伝〉と呼ばれねばならない。
それは〈能〉の精神である。
〈能〉とは〈知り能う〉こととしての〈知能〉を意味する。
体に感じるものはそれを知り能う。

しかしこの〈能〉とは、
普通に可能・不可能・有能・無能と言われるときには
見失われている何かである。
それは〈美しきもの〉のことである。
また美しき風の出来事の出来することをいう。

〈能〉とは風の出来事である。

出来る・出来ない、
また出来が良い・悪い、
出来上がる・出来ていない、
という言い方のなかで
私達がうかつに見過ごしている〈風〉の問題がある。

〈風〉はただ起こる。それは風起し出来するのみ。
〈能〉とはこの出来事の「出来性」を意味する。
私が「不可能性」と呼ぶのは、この〈能〉〈出来性〉のことである。
〈能〉とは〈起こりつつ出来る〉ことを意味する。

この〈出来る〉は、
「何かが出来る(可能・有能)」ことを意味するのではない。
それは「何かが出て来る」ということを意味する。

出て来るものは〈美しきもの〉である。
これを〈奇蹟〉という。
〈美しきもの〉とは〈うつ奇しきもの〉のことである。

〈美〉の観念の核心には〈奇〉つまり〈不思議〉がある。
この〈奇〉なるものは、風の出来事の風核の接触に関係している。

〈奇〉とは風が当たって、その〈気〉が触れる微かなふるえのことである。
ふるえるとはそれが動き、息づくこと、生きているということである。

この生きているものが〈物〉である。
実際には生命をもたぬものであっても、
それは恰も生きているかのようにふるえ動くときに、
一瞬の〈奇〉なる命をもつ。

〈命〉の観念の核心には〈奇〉がある。

この〈奇なるもの〉は〈奇麗なもの〉と〈うつ奇しきもの〉に分岐する。
分岐させるのは〈うつ〉と言われる何かである。
これは〈うち(内)〉の古形として知られている。

美しいものとは、
内に奇を孕んで受胎し〈もの〉として忽然と現れる〈物〉のことである。

この〈物の現れ〉を〈もののあわれ〉という。

それは内に奇を孕みうごめきながら〈外〉へと生まれ出ずる。
これが〈奇麗なもの〉である。
しかし、それは〈奇〔あや〕しいもの〉でもありうる。
ここに〈妖怪〉または〈物の怪〉の観念も同時に生まれ出ているのである。


〈うつ〉は物の内部を暗示している。
そして実際に〈うつろ・空虚〉の意を表す古い接頭語である。

物としての〈物〉はうつろなもの、
内に〈何も無い〉をもつだけの〈器〉である。

これが〈からだ〉である。
〈からだ〉とはそれだけでは〈身〉のない〈空だ〉であるものである。

〈器〉である〈からだ〉に〈身〉が入ってやっと本来の意味での身体、
〈人〉の〈本(もと)〉である〈体〉となる。

しかし、飜って、〈人〉の〈本〔もと〕〉を
素材(質料)の意に解するなら、
〈体〉とは〈身〉のない内側の空虚な〈器〉でしかない。

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カラ・・・・・(苦笑)
魂(たましい)宿ってこそ、人なのですね。生まれたその瞬間に。

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