MONIQUE(モニッキ)のお散歩日記

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zoom RSS ナオミ・クライン ショックドクトリンを見てのメモ

<<   作成日時 : 2015/06/14 15:30   >>

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ツイート「ショックドクトリン」
ナオミ・クライン著(岩波書店)『ショック・ドクトリン‐惨事便乗型資本主義の正体を暴く』のドキュメンタリー映画(日本語字幕ナシ)をモーリー・ロバートソンさんが内容をツイートで追ってくれています。
監督はマット・ホワイトクロスとマイケル・ウィンターボトム!
by SenseStroll

そろそろ本丸だね。MKウルトラ、KUBARK拷問マニュアル、新自由主義経済、ソ連崩壊後のネオリベ革命、そして…日本にやってくる… ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン」の映画> The Shock Doctrine 2009: http://t.co/5vH2cWPFGB

1970年、CIAが計画・支援したチリのクーデター。投票で選ばれた社会主義寄り(と思われた)大統領は殺害され、軍事政権が発足する。この時、何年も前からシカゴ経済学派に訓練されたチリのエコノミストたちが「新しいチリ経済」の青図をピノチェト新大統領に提出。

その結果、チリは新自由主義経済の人体実験を受ける国家となった。(ドキュメンタリー映画より)→CIAがチリのクーデターを支援していたことに関する情報公開が進んでいますが、軍事政権下のチリで国民を新自由主義経済の被験者にして研究した、とするナオミ・クラインの主張は新鮮。次はどこかな?

1970年代、アルゼンチンもチリに続いて軍事クーデター。そこにすかさずシカゴ学派の経済専門家たちがアドバイザーとして入り、反・共産主義の「純粋な資本主義」を売り込む。軍事政権はアルゼンチンを次の経済実験に晒し、公的予算の大幅カットほか大混乱へ。

軍事政権への反対者はもちろん、経済政策に批判的な意見を持つ国民は「共産主義分子」の嫌疑がかけられ、治安部隊によって白昼堂々と拉致され、多くはそのまま収容所に送られ、拷問・殺害される。拷問は米軍関連の組織「スクール・オブ・アメリカズ」が提供したマニュアルにしたがって行われた。

米軍・CIAが提供した拷問マニュアルは本来、捕虜となった敵の兵士から情報を得るためのメソッドだったが、アルゼンチンではこのマニュアルを一般市民に向けた。ある政治犯収容所には妊婦が集められ、出産後に母親たちを処刑。生まれた子は大統領にコネクションのある家族に養子として引き取られた。

この行為は「アルゼンチンが生まれ変わる」という演出にも一役買ったという。また、軍事政権下のアルゼンチンはワールド・カップを主催。スタジアムの大歓声が、すぐ近くにあった収容所の拷問による悲鳴をかき消した、とも証言されている。

親族を国家によって誘拐された母親たちを中心に抗議運動が広まる。その後、英国とのフォークランド紛争に敗戦したことがきっかけでアルゼンチンの軍事政権は崩壊。元大統領は裁判にかけられ、終身刑の判決を受ける。収監の数年後、恩赦。


当時ニクソン大統領は反共の立場からラテンアメリカ諸国の軍事独裁政権を支援、シカゴ学派による壮大な社会実験とも言える新自由主義も応援。しかしアメリカ国内では再選される必要があるため、大きなリスクを伴う新自由主義経済へと舵を取ることには躊躇した。

興味深いです。ニクソンはシカゴ学派から(あの)ドナルド・ラムズフェルドなどの専門家を数名起用。しかし停滞するアメリカ経済に対してはケインズ学派に基づく政策を進め、回復基調をもたらしたおかげで再選される。

一方、1979年にイギリス首相になったマーガレット・サッチャーは、フリードマンのメンターであったハイエクに心酔。翌年、アメリカではロナルド・レーガンが大統領選で圧勝。これにより両国ではシカゴ学派の影響力が圧倒的なものになった。

サッチャー政権は新自由主義の政策へと踏切、3年間で失業率が倍になる。広範囲の労働争議や暴動が発生。経済学者ハイエクはサッチャー首相に「チリのピノチェト大統領の経済政策にならうように」とアドバイス。しかしサッチャーは「民主国家の英国ではチリと同様に進められない」と逡巡。

しかし1982年、フォークランド諸島の領有をめぐってアルゼンチンの軍事政権と開戦するに至り、イギリス社会の気分は高揚し、新自由主義を進める舞台装置、つまり「ショック状態」が整った…とドキュメンタリーの解説。少し制作側のイデオロギーが入っているようですが、信ぴょう性あります。

その後サッチャー首相は再選。英国で最も力のあった炭鉱労働組合のストライキが1年間に及ぶが、サッチャーは時には暴力を使って徐々にストライキを鎮圧。これはサッチャー首相の勝利を象徴するものだった。

勢いづいたサッチャー政権は、民営化を推進する広告キャンペーンを展開。鉄鋼、水道、電力、ガス、通信、航空、石油が次々に民営化される。公営住宅は民間に売却。金融規制も大幅緩和。これは「ビッグ・バン」と呼ばれる。

サッチャー政権の前、イギリスのCEOの平均年収は平均的な労働者の10倍。2007年にはその比率が100倍になる。レーガン政権の前、アメリカの比率は43倍。2005年には400倍に格差が広がっていた。

1988年、サッチャー首相はポーランドで反対性運動を展開する「連帯」を訪問、激励。1989年、ポーランドで自由選挙が行われ、共産主義の独裁が終焉。これは東欧各国に連鎖。ゴルバチョフが東欧諸国の民主化運動をソ連軍で鎮圧しなかった背景には、北欧型・社会民主主義の理想があった。

ゴルバチョフは強権的な共産党独裁でも、野放しの資本主義でもない「第三の道」を模索。しかし1991年、政権末期のゴルバチョフが西側首脳会議に出席して経済支援を求めたところ、急進的な自由化を進めることを迫られた。翌月、モスクワでクーデター未遂。その後ソ連が解体。

新生ロシアの実験を掌握したエリツィンはシカゴ学派の経済専門家を西側から迎え、急激な新自由主義を推進。これはロシア経済に大混乱をもたらした。「ショックだけで、セラピーはなかった」とドキュメンタリーのナレーション。

「自由化」されたロシア経済は、あっという間に一握りの新興富裕層によって寡占支配される。ソ連時代に雇用を支えていた国営企業は最安値で売却。この結果、1991年から1992年の1年で、ロシア人の平均消費量は年間4割減少した。国民の3分の1が貧困に転落。給料の遅配が目立った。

混乱の中、ロシアには腐敗が横行し、マフィアが急成長した。モスクワは新たな「ワイルド・ウェスト」と化した。国民の大半は自由化に反対。1993年、ロシア議会はエリツィンに付託した権限を議決により剥奪。エリツィンは非常事態を宣言するが、ロシアの憲法裁判所はこれを違憲と判断。

その後、エリツィン大統領は議会の解散・停止を宣言。欧米諸国はエリツィンを支持。2日後、議会はエリツィンの罷免を決議。大勢の市民が議会を支持して集結、国営テレビ局に向けてデモ行進。その夜、エリツィンの指令により治安部隊が出動、市民に発砲。100人の犠牲者を出して鎮圧。

次いでエリツィン大統領の指令で軍が出動。戦車が議会を砲撃、兵士が議会に向けて発砲。米政府はこの指令を「特別な状況下」として支持した。この結果、エリツィン大統領は事実上の独裁者となり、南米でかつて行われたような独裁と新自由主義のカクテルが推し進められた、と映画の解説。

1998年、ロシアの農家の80%が破綻。国営工場70,000が閉鎖。一方、モスクワ市には世界のどの都市よりもビリオネアが集結するという究極の格差が生まれる。

その後、9.11をめぐる怪しげな動き、ラムズフェルド国防長官がアメリカ軍の民営化を推進する動きなどが解説されます。


かなり強烈な電磁波輻射が昨夜も行われました。
私はいくらか防御しているものの、筋肉は幾らか損傷を受けて
内臓共々痛みます。こういう残酷なる次世代兵器を使っての戦争を
したがっている自公民が、同じように国民の脳神経を焼きながら、
憲法を骨抜きにする特別秘密保護法案を強行採決しようとしています。

自民党議員が日本を地獄にしないために、自民党離脱を覚悟で造反
してくれることを祈るのみです。執政者たちには、はじめから執政
する資格などありません。ましてや、公安やマスコミ私物化を進めて
きた公明党になど。。。


極端な話、明日、東京の電気落ちないと、議員へのマインドコントロールで、採決されてしまう恐れがあります。審議が行われずに。

だれか、東京への電源、切ってくれませんか?
テロでも構いませんよ。

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