MONIQUE(モニッキ)のお散歩日記

アクセスカウンタ

zoom RSS 保存資料 フランス革命前後の、イルミナティとフリーメイソン

<<   作成日時 : 2015/06/12 19:33   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0



当時ドイツの自由結社(フリーメイソン?)の類では亜流と見られていた、イルミナティー(Illuminatenorden)啓明結社と、Strikte Observanz厳格戒律派という二つの結社が手を組んだのです。(というか後者が空中分解)。

のちにこのボーデはミラボー伯により、スカウトされ、フランスのメイソンの政治的指導者としてに引っ張られる。

1778年
多くの市民と下級貴族が大挙入団し、組織は巨大化した。バヴァリア・イルミナティは急速に膨張し、ヨーロッパに広がっていった。沈滞状況にあったフリーメーソン団員の多くを獲得し、主として学者、弁護士、裁判官、学生、薬剤師、貴族らの知的エリートが参加した。

当初は政治的な団体ではなく、啓蒙思想と言って『伝統や因習に縛られないリベラルな知的交流を目的』としていた。やがてその反体制性が警戒されて弾圧を受けるようになる。

結社結成の日、ヴァイスハウプトは「Novus Ordo Seclorum」というタイトルの本を出版していますが、このラテン語の意味は「新世界秩序」で、ヴァイスハウプトの掲げたイルミナティの行動綱領は以下の通りです。

1、すべての既成政府の廃絶とイルミナティの統括する世界単一政府の樹立。
2、私有財産と遺産相続の撤廃。
3、愛国心と民族意識の根絶。
4、家族制度と結婚制度の撤廃と、子供のコミューン教育の実現。
5、すべての宗教の撤廃。

この危険な思想のため、彼は弾圧され、世界最大の秘密結社組織「フリーメーソン」に逃げ込むようにして入会を果たし、その後ヴァイスハウプトは、フリーメーソンのロッジでも最高位に登りつめ、フリーメーソン内にイルミナティ組織をつくり、フリーメーソンは変質してゆく事になりました。

フリーメーソン側も、この危険思想のヴァイスハウプトを追放しようともしましたが、時既に遅く、既に強大な力を持ったヴァイスハウプトを追い出すことはできず、1782年7月16日にイルミナティとフリーメーソンの間で会談が行われ、協議の結果、イルミナティは正式にフリーメーソンの中のひとつの派とすることになったのです。

フリーメーソン思想の原点は、古代エジプト神話のホルス神の万物を見通し真理を追求するもので、古代イスラエルのソロモンの知恵、ギリシアのピタゴラス学派につながる真理の追究、建築・数学を重視し、「自由・平等・博愛」を説く極めて平和的なものであり、

それが「石工組合」に伝承され、中世ヨーロッパで石造建築が行き渡り、建設需要がなくなったあたりから、石工ではない政治家、貴族、学者たちが入会することになりましたが、ヴァイスハウプトの危険な「イルミナティ」を内側に取り込んでしまい、政治色や革命色を帯びてくるようになりました。

本来、フリーメーソンは宗教の自由を説いているのに、やたらと革命・陰謀・ユダヤのキーワードと、フリーメーソンが結びついてくるのは、このユダヤ人ヴァイスハウプトの「イルミナティ」に原因があるのです。


1785年
イルミナティの急進性に不安感をもったキリスト教会は、バイエルン選帝侯を動かして、1784年にイルミナティ禁止令を出させることに成功し

(「政府の許可無く組織を作ることを禁止する」という禁令が下され、バイエルン政府が、フリーメイソン、イルミナティを含む全ての秘密結社を禁止した。)

多くの会員は投獄されるか、ヴァイスハウプトのように国外に脱出し、一時は2000名以上の会員を誇った結社も、18世紀末までには消滅してしまいました。
参考:http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/741.html


更に、致命的なスキャンダル事件が起こる。
国立アカデミーの教授でイルミナティ幹部だったヨーゼフ・ウイッツシュナイダーの密告により、イルミナティがオーストリアのヨーゼフ2世と結託し、ドイツを転覆させ、ドイツをオーストリア帝国の支配下に置く陰謀を企んでいる、そのために毒殺や短剣を用いた要人の暗殺を企んでいる、とする陰謀が暴露された。

政府はイルミナティの調査を命令。結果、『反キリスト教的思想』『反王制思想』『革命思想』が発覚した。同年、2回目のイルミナティを名指しで禁止する法令が出される。一連の指導者は逮捕され、政府高官は左遷、公職追放された。ヴァイスハウプトはレーゲンスブルクに亡命し、イルミナティの弁護の著書を次々に出したが、無駄であった。

この頃、彼は私生児を設け、これを堕胎させた。これは結果的に赤ん坊殺しのスキャンダルに発展し、終いには「イルミナティでは赤子を生け贄にする黒ミサを行っている」というデマまで生まれた。

さらに、イルミナティの元団員達が裏切り、曰く、イルミナティは毒殺と私刑に満ちた恐怖支配の黒魔術結社であり、テロによる政府転覆を狙う陰謀結社である云々と告発した。

反フリーメーソン論者として知られたバリュエル神父やロビンソン教授らが、イルミナティを悪魔崇拝の政治的陰謀結社とする本やパンフを出版し告発した。

1786年
政府も世論も完全にイルミナティの敵となった。主な団員は公職追放され、団員達も退会した。オーストリアとワイマールの支部は、その後も何とか存続しようとしたが、1786年、壊滅する。元祖イルミナティの寿命は、わずか十年間であった。

参考
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/597.html


1782-1788の間
『フランスの外交官ミラボー伯がドイツでスパイ活動を行っていたが、彼はここでイルミナティに入団しその人脈を政治的にも利用した。さらにフランスのフリーメーソンの実力者をイルミナティに入団させようとした。そして、ドイツで壊滅状態に陥ったイルミナティの難民としてヨハン・ヨアヒム・クリストフ・ボーデなる男が、ミラボー伯の手引きでフランスに現れる。ミラボーは、彼をフランスのメーソンの顧問的指導者にしようとする。』


1787年
ヴァイスハウプトは、「イルミナティ結社の原著作集」と題する著作を発表し、イルミナティ結社のねらいと目的を明らかにしている。 基本的に集産主義、社会主義、宗教の撲減、すべての政府の転覆、個人財産権の廃止を呼びかけていた。

1789年
フランス革命が勃発した。この時、フリーメーソン、イルミナティが暗躍した。

ヴァイスハウプトは革命の準備のため、カソリックが主な割合を占めていた民衆のモラルを踏みにじり、人々に破廉恥な流行を仕込み、道徳を踏み外した行動を促した。
怠惰な貴族の一人を、女性を次々と与えることで段々と義理と借金でがんじがらめにし、精神を骨抜きにし、何でも言う事を聞くイヌのような存在に仕立て上げたあげく、親戚のマリーアントワネットを国民に怨まれるよう、偽情報で罠にはめ、
ギロチンという熱狂のイベントに導いた。革命後、低所得者層であったユダヤ人
には、欧州では初の?人権が齎された。

マリーアントワネット
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/202.html

結社が禁止された1785年から4年後のことである。

アルバートバイク
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/598.html

1829年
イルミナティの集会がニューヨークで開かれ、イルミナティの英国人メンバー・ライトが演説を行い、「イルミナティがあらゆる破壊分子組織とニヒリストおよび無神論者を総合し、『共産主義』として知られるひとつの国際組織とするつもりである」と公表した。この新たな企てのために基金を募る委員に指名された一人が、フランクリン・ D ・ルーズべルトの直系の先祖クリントン・ルーズべルトで、集められた基金の一部が、マルクスとエンゲルスの共産主義活動費用に提供された、との説がある。⇨ 後のソ連建国へ。

ヴァイスハウプトは、その後も、ほうぼうを亡命しなら著作活動続けたが、ドイツ中部のゴータ公領に逃げ込み、彼の支持者だったエルンスト公爵に庇護され、そこで余生を過ごした。

1830年
彼は死去した。臨終の枕に集まった弟子たちに、イルミナティの創設者アダム・ヴァイスハウプトはため息まじりにこう語っていた。

「我々の理想を歪め、世間に悪評をばらまき、世のあらゆる陰謀をイルミナティになすりつけようとする黒魔術団がある。注意するのだ……闇のイルミナティに!」。

⇧⇧これが、ブラックメイソン、という奴ですかね。レーニンやレーニン内閣のユダヤ人達を毒殺した。。。

 ヴァイスハウプトが死去すると、イタリー人のマッチーニが、次のイルミナティ指導者として選抜される。モーゼス・ヘスは、マッチーニより少し下の世代になる。1847年、マルクスとエンゲルスは、義人同盟に加入した。この義人同盟は、イルミナティの地下組織の一つであった」。

 概要「日本人のこれまでのマルクスとエンゲルスについての知識は、少なくとも、三つの点で致命的に欠陥がある。即ち、一つは、フランキストについて何も知らない。二つは、モーゼス・ヘスを通じて、マルクスとエンゲルスが、ロスチャイルド(初代)に由来するイルミナティに結び付いて居ることを何も知らない。三つ目、マルクスとエンゲルスは、イルミナティの下部機関としてのフリーメーソンの会員(第三十二階級)であったことを知らない。マルクスこの初歩的大前提について何も知らずにマルクス、マルクス主義、共産主義について、おしゃべりすることは児戯的である」。

 1830年代、ワイトリングを指導者とするドイツ人労働者を中心とする国際的な秘密結社「義人同盟」が設立されていた。当時ロンドン、パリ、ブリュッセル等で活動していた。1847年春、マルクスとエンゲルスが「義人同盟」に加盟する。1847.6月、「義人同盟」がロンドンで再組織大会を開き、「共産主義者同盟」と改称する。この大会でエンゲルス提案の「同盟」規約が採用された。この時、共産主義的綱領(信条)も決議しようとしたがまとまらず、綱領の作成は、第二回大会まで延期された。

 その後、ロンドンの中央委員は、討論用としての「共産主義者の信条草案」を大陸の同盟諸組織におくってきた。10.15日頃、パリ班に所属していたモーゼス・ヘスが、「すばらしく改良された信条をつくりあげた」。10.22日、パリの地区委員に選出されたエンゲルスが地区(会議)を開き、モーゼス・ヘスの改良草案を一問ずつ吟味した結果、支持された。10.29日、最終推敲された草案「共産主義の原理」を議決し、エンゲルスがこれをロンドンに送った。

 この草案に対し、マルクスは、問答形式をやめて、「共産主義者の宣言」としてむしろ理論的体系的なものを打ち出す必要があると指摘する。1847.11月、ロンドンで、「共産主義者同盟」の第二回大会が開かれ、この時の大会委任をうけて、マルクス、エンゲルス共著で「共産主義者の宣言」が作成され、1848.2月、二月革命の数日前に発表される。

 こうして「共産主義者の宣言」が生み出されていくことになるが、「共産主義者の信条草案」、それを訂正したモーゼス・ヘス草案、それを訂正したエンゲルス草案「共産主義の原理」が先駆的な役割を果たしたことになる。

 この経緯は、モーゼス・ヘスとマルクス、エンゲルスの関わりの親密さを物語っている。そのモーゼス・ヘスが、前後関係は不明であるが、「シオンの議定書」派と誼を通じている。これを時代順に確認すれば次のようになる。

 1773年、初代ロスチャイルドが「13名からなるイルミナティー」を設立する。
 1776年、ヴァイスハウプトが「拡大版イルミナティ」を結成する。ヴァイスハウプト死後、マッチーニが二代目の指導者となる。
 1830年、「義人同盟」が設立される。
 1847年、マルクスとエンゲルスが義人同盟に加入する。
 1848年、「共産主義者の宣言」が発表される。
 1860年、カリシャー長老が「シオンの議定書原案」を講演する。

 してみれば、「シオンの議定書の講演著述者カリシャー長老とマルクスは、直接的にかどうかまでは分からないが、裏で人脈的に繋がっていた可能性がある」との線は洗われねばならないことになろう。少なくとも、思想的には「二卵性双生児」の観があることは否めない。


1789年(フランス革命の年)
『カリオストロ伯爵がローマで逮捕された。伯爵はこの時、イルミナティなる国際的巨大な陰謀結社があり、自分はその命令通り動いていただけだ、と弁明した。』

※ カリオストロ:
ヨーロッパ中を旅し、多くの偽名を駆使して社交界に乗り込み、胡散臭い商売を繰り返した後、1777年、フランマソヌリ(英語ではフリーメイソンリー)に参入し、フランマソン(フリーメイソン)になる。後にフランマソンのエジプト起源説を唱え、自ら分派「エジプト・メイソンリー」を設立した。ロシア宮廷でのスキャンダルや、マリー・アントワネットを巻き込んだ有名な詐欺事件「首飾り事件」(1785年)によって失脚。再びヨーロッパ中を転々とすることとなるが、1789年にローマで異端の嫌疑をかけられ逮捕。宗教裁判にかけられ、1791年に終身刑を言い渡された。1795年、獄死。しかし、その死後も生きて地上を漂泊しているという噂が根強く、ロシアにまで流布した。

 それはそれとして、ここで、マルクスの隠された一面を明らかにする。それは、マルクスがアダム・ヴァイスハウプトのイルミナティ(啓明結社)と云うフリーメーソンの会員だった事である。更に云えば、彼が其の厖大な著作を物しながら唯一の心の奥深く秘めて書かなかった事に触れなければならない。何故ならそれこそユダヤ共産主義指令塔存立の根幹とも云えるからである。マルクスは、やがてこの世に来るベキ至福千年の王国(階級対立無き共産社会)に有っては、神の選民たるユダヤ人が、その頂点に立つべきだと云う思想に同調していた。

 第一インター・ナショナルでマルクスと決裂したバクーニンの「マルクスとの個人的関係」(1871年12月、バクーニン著作集第6巻・白水社刊)は次のように記している。バクーニンは、次のようにマルクスを評している。

 それはそれとして、ここで、マルクスの隠された一面を明らかにする。それは、マルクスがアダム・ヴァイスハウプトのイルミナティ(啓明結社)と云うフリーメーソンの会員だった事である。更に云えば、彼が其の厖大な著作を物しながら唯一の心の奥深く秘めて書かなかった事に触れなければならない。何故ならそれこそユダヤ共産主義指令塔存立の根幹とも云えるからである。マルクスは、やがてこの世に来るベキ至福千年の王国(階級対立無き共産社会)に有っては、神の選民たるユダヤ人が、その頂点に立つべきだと云う思想に同調していた。

 第一インター・ナショナルでマルクスと決裂したバクーニンの「マルクスとの個人的関係」(1871年12月、バクーニン著作集第6巻・白水社刊)は次のように記している。バクーニンは、次のようにマルクスを評している。
 意訳概要「マルクスはエンゲルスと共に第一インター・ナショナルに最大の貢献をした。この点は賞められて良い。彼は聡明で学識深い経済学者であり、イタリアの共和主義者マッツツィーニらの生徒と呼んでいい程である。しかし、『光には影がある』。先ず第一に、彼は教条主義的で、理論の高みから人々を睥睨し、軽蔑している。『マルクスは社会主義や共産主義の法王だと自ら考えている』気配がある。マルクスは、権力を追求し、支配を愛好し、権威を渇望する。何時の日にか自分自身の国を支配しようと望むだけでは満足せず、全世界的な権力、世界国家を夢見ている」。

 「ユダヤ人マルクスは、ロンドンにもフランスにも、取り分けドイツにちょっと頭の切れる陰謀家で、活動家で、山師的な沢山のユダヤ人グループを持っている。実業家、銀行家、作家、政治家、色々な記者、文学仲買人だ。詰まり、一方で銀行に足を突っ込み財界の仲立ちをし、同時にもう一方の足で社会主義運動に突っ込み、御尻は独逸の日刊新聞ーー彼等は、全ての新聞に独占しているーーといった連中だ。…しかし暴利を貪る宗派、蛭の様な連中、欲張りで比類無い寄生虫により固く、親密に組織されているユダヤ人世界は、単に国境を越えているだけでは無く、あらゆる政治的意見をも超越して結ばれている。

 れんだいこは、マルクス主義がその革命的弁証法、唯物史観にも拘わらず実際の運動がどうも変調運動に堕しているのも、サヨ系の運動がネオ・シオニズムの理論と運動と寸分たがわぬものになっているのも、元に戻って「マルクスがネオ・シオニズムに迎合的であった」ことに遠因があるのではないかと思っております。

 党員は、マルクスの理論に納得して入党し、やっていることはネオ・シオニズムの御用聞き運動という変調に陥っております。それというのも、マルクス主義とネオ・シオニズムの識別が為されていないからではないかと思っております。現に、国際主義という概念で、両者がどう違うのかきちんと説明できる人が居たら聞かせて欲しい。在地権力批判、政府打倒に於ける運動で両者がどう違うのかきちんと説明できる人が居たら聞かせて欲しい。


ボーテ。ストリクト・オブサーバンツ。
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-156.html
登場重要人物、ヘッセン·カッセル方伯、ヨハン·ヨアヒム·クリストフ·ボーデ、
クニッゲ男爵、フント男爵、シュタルクです。

組織としてはフリーメーソン=フライマウレライ、

イルミナティー啓明結社、ストリクト・オブサーバンツ厳格戒律派。

ネットではストリクト・オブサーバンツの名を見かける事はありませんが
この組織がドイツ人民の心を掴んだキイです。 この組織の掌握なしに、
後のイルミナティーのコミュニスト活動の効果はあり得なかったでしょう。
そのプロセスをヘッセンの命により、秘密裏に動いたのが、クニッゲ男爵と
ヨハン·ヨアヒム·クリストフ·ボーデなのです。

クニッゲ男爵はこれらの活動の後、ヘッセン家から疑われ追いやられ、
それに代わるのがロスチャイルドです。

シュタルクはイエズス会から送り込まれました。フント男爵の理想をストリクト・オブサーバンツから取り除くために、ヘッセンが送り込んだ刺客なのです。
これらが、イルミナティーを純粋なコミュニスト活動部隊にする為に、
ヘッセンが仕組んだ裏工作、正反合の仕組みです。

現代の社会に入れ込まれた、「混沌、戦争を煽る勢力」と
「日本は神の国で世界を救う。」というマッチ・ポンプと同様です。

1788年
ミラボーは、雄弁家であり、ジャーナリストであり、活動的な政治家であり、
有能な行政官 であったとも云われている。その行動領域は極めて多面的である。
そうしたなかで、アンシャン ・レジームの末期に、私設外交官としてベルリンに滞在し、王政のあり方について研究した 成果を、1788年にロンドンで 発表。

" De la monarchie prussienne, sous Frederic le Graud, 7 vols "

として公刊した。これについては、マルクスも「資本論」で取りあげており、
日本においても早くから、その存在は知られていた。

プロイセン王国に関する意見書、書簡などが含まれており、より詳細な研究をすすめる ことができよう。また、外交問題に関する所信被れきも数多く行なわれており、18世紀末に おけるヨーロッパ外交問題の一端を知ることができよう。

三部会の召集からフランス革命の初期段階である立憲議会にかけて、
ミラボーは縦横に「獅子 奮迅」の活躍ぶりを示す。
ルソーの思想を理解し、民衆の立場から旧貴族層の封建的反動に抵抗 しながらも、
国王の弁護人として「裏切り」の嫌疑をかけられたミラボー。

合理的な立憲王政 がミラボーの目標であったと考えられるが、立憲議会における諸立法へのミラボーの反応は フランス革命の社会・経済史を分析する上で重要である。

^ 1772年から1782年にかけて、7年間幽閉されていた。しかし、1772年には『専制政治論』を書いている。投獄されている間に政治手覚書を多数書いている。(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』U ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 467ページ)
^ フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』U ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 468ページ

まず始めにStrikte Observanzが発生し、その後、発生したイルミナティーが、
後に空中分解するStrikte Observanzの受け皿となる形で発展した。
この二つの秘密結社に深く関わり、その秘密結社を社会改革運動の発信基地として発展させようと努め、 なおかつ、その理念を、主にヴァイマールを中心とした文人、政治家に伝えた 。

・ヨハン·ヨアヒム·クリストフ·ボーデ(Lilio Convallium) - Illuminatus、1782

『ファウスト』で有名な『ゲーテ』の、フリーメーソン参入儀式の立会人こそ、このヨハン·ヨアヒム·クリストフ·ボーデである。 当時ドイツでは、フリーメーソンはフライマウレライと呼ばれていた。 その亜流として誕生したのが、イルミナティー(Illuminatenorden)啓明結社と、Strikte Observanz厳格戒律派である。
まず始めにStrikte Observanzが発生し、その後、発生したイルミナティーが、 後に空中分解するStrikte Observanzの受け皿となる形で発展した。
この二つの秘密結社に深く関わり、その秘密結社を社会改革運動の発信基地として発展させようと努め、 なおかつ、その理念を、主にヴァイマールを中心とした文人、政治家に伝えた 18世紀ドイツフライマウレライ解明のキーマンこそ、ヨハン·ヨアヒム·クリストフ·ボーデである。

ボーデは1730年1月12日に日雇い兵士の息子としてブラウンシュヴァイクのバルム(Barum)で生まれた。
この貧しい生い立ちが社会改革を目指す精神を培う原点になっていると思
われる。
お世辞にも良いとは言えない彼の教育環境にあって、彼に初めて文化的薫陶の機会を与えたのは母親であった。
彼女は我が子に音楽的才能を認め、1745年、彼が14歳の時から音楽教育を受けさせ、
1750年には彼はブラウンシュヴァイクの音楽隊のオーボエ奏者になる。ちょうどこの時期より、
学究的な世界にも興味を示し始め、フランス語と英語を学び始める。これが彼を後に有名な翻訳家にする下地となるのである。
1757年にブラウンシュヴァイクからハンブルクに移ってからは、新聞の編集や翻訳の仕事を始めた。
1766年には彼の手元に残された妻の遺産を元手に出版社兼印刷業も平行して営み始める。
ゲーテの„Götz von Berlihingenmit der eisernen Hand“はボーデの元から出版された。

このような表の顔に対する裏の顔を彼は持っていた。
それはフライマウラーとしての顔であり、それこそ彼の真骨頂であった。
1737年にドイツのハンブルクに初めて設立された、イギリス大ロッジ公認のAbsalom zu den drei Nesselnに、1761年に入会する。
短い期間でマイスターの位にまで達し、Absalomロッジの秘書となった。
ハンブルクにStrikte Observanzを導入したのは彼であった。
1766年、彼はAbsalomロッジ全体の総代理人として働いていて、
この役職でInnerenorden(Strikte Observanzの幹部組織)と従来の伝統的なロッジ双方の会計主任を務めていた。
また、フライマウラーの警察庁の長として、結社内部の秩序維持も受け持っていた。
この業績ゆえクニッゲ男爵は、彼に、後に厳格戒律派執事という名誉階級を授与した。
このクニッゲ男爵こそが、ヘッセンがStrikte Observanz、イルミナティーを我が物にする為の使者。
金融面のロスチャイルドと並ぶ片腕であった。
そして、この地位がボーデに当時のStrikte Observanzを中心としてドイツ・フライマウレライの全容を見渡せるポジションを与えた。

1776年クニッゲ男爵とボーデが一緒にヴァイマールを訪れていた。(イルミナティーが設立された年である。)
1776年にカール・アウグスト公は、ゲーテの提案でクニッゲ男爵を自分の侍従にしている。
1778年ボーデは、ベルンシュトフ伯爵というデンマークの大臣の未亡人の首脳陣として付き従う形でにヴァイマールに引っ越すことになる。
ヴァイマールの宮廷内にフライマウレライを導入した中心人物フリッチュ大臣は、ボーデによりStrikte Observanzを導入した。
Strikte Observanzは18世紀ドイツにおけるフライマウレライで支配的地位を獲得していた流派である。
オーバーラウジッツ出身のフント男爵によって1743年にその原形が作られ1751年以降拡大されていくが、
この結社を設立したフント男爵の真の目的は、自分達の国土で自分達の民主主義を打ち立てる憲法によって、独立した貴族国家を実現することだった。
フント男爵はそれをテンプル騎士団説とフライマウラーを結びつけることに求めた。
従来のフライマウレライの位階制度である、徒弟・職人・親方という身分の上に、さらに修正スコットランド儀礼と称する上位階制度を置いた。
そして自分達が上位階につくことで、貴族が職人達の徒弟制度であるフライマウレライ的徒弟制度を支配する形式を作った。
つまり、外見上は貴族主導型のフライマウレライにしたわけである。
ドイツでもテンプル騎士団にまつわる伝説と、スコットランドに対する憧憬の念が、一般に広がっていたし、
知られざる上位者(陰のボス)がそこには存在しているという、実にロマンティックな概念が人々の空想的好奇心を刺激した。
そして、Strikte Observanzはドイツで最も巨大で重要な高位階組織となっていく。
1776年フントは死去しシュタルクが取って代わる。
シュタルクは、ルター派の牧師の息子であり、表向きはプロテスタントに所属しているように振舞っていたが、
実はカトリック教徒であり、その上Strikte Observanzを解体するためにイエズス会から派遣された者だった。
彼は、儀礼の内容を全てカトリック化し、Strikte Observanzが本来の目的とする
民主主義に基づく貴族社会の確立などは、全く望めない組織にしてしまったのである。
フント男爵の後を継いだのはブラウンシュヴァイク公フェルディナントだったが、
彼ももはやドイツのフライマウレライの連合を維持しつづける力は持っていなかった。
このことをボーデもクニッゲ男爵もよくわかっており、Strikte Observanzの組織をイルミナティーに接木する計画を進めていた。
そして1782年ヴィルヘルムスバートの大会で、結社ナンバー2に昇進したヘッセン・カッセル方伯カールの抗議により、
ヴァイマールがStrikte Observanzロッジの中心となる事は阻止されてしまったのである。
そのような中、イルミナティーはクニッゲ男爵とボーデによる広報活動によって1780年以降、帝国全土の領域に広がりつつあった。
即ちヴィルヘルムスバートの大会以前に下準備がなされていたのである。
そのようなわけで1782年にはヴァイマールのフライマウラーの兄弟達は非公開の形でイルミナティーの集会に集うことになった。
その中には重要人物が多くいたのである。
ゲーテ、カール・アウグスト公、ヘルダー、ムゼウス、カール・アウグスト・ベッティガー、医師フーフェラント、彫刻家クラウアー、
ヴィーラントの息子、ボーデとすぐに親友となることになるイエナの哲学者カー
ル・レオンハルト・ラインホルト、
さらにStrikte Observanzのフライマウラーであるフリッチュ、マーシャル、シャルト
並びに政府の政治的重要人物であるクリスチャン・ゴットリープ・フォイクトが挙げられる。
当時ヴァイマールのイルミナティーを束ねていたのは、当然のことながらボーデであった。
1784年、イオニア管区長に就任している。イオニアとは、ベルリンとブランデンブルクを含むオーバーザクセンのことである。
ボーデはヴァイマールでも管区長であり上司であり、本来的推進力となっていた。

イルミナティーのさまざまな活動の拠点は隣接したゴータ、ゴータのエルンスト公は組織の後援者であり、
組織の創立者であるヴァイスハウプトを匿っていた。ヴァイスハウプトはヴァイマールに呼ばれることはなかった。
ゴータの有名な結社員としては、一般民衆の啓蒙主義者であるルドルフ・ツァハ
リアス・ベッカー、
シュールポルタンの長であるヨハン・ゴットフリート・ガイスラー、ゴータのエルンスト公の親友であるクリスチャン・ゲオルク・フォン・ヘルモールト、
後にミュンヘンアカデミーの秘書となり„Nekrologs der Deutschen“の著者となるアドルフ・シュリヒテグロールがいる。
ワイマールとゴータ以外での結社員としては、ベルリンのフリードリヒ・ニコライ、ビースター、
マインツの選帝侯の助手で神聖ローマ帝国の代理宰相であるエアフルトのカール・テオドール・フォン・ダールベルク、
ハンブルクの上院議員で当地のジャコバンクラブの創設者となるゲオルク・ハインリヒ・ジーフェキング、有名な俳優で歴史家であり、
19世紀初頭のフライマウレライの改革者となったフリードリヒ・ルートヴィヒ・シュレーダーなどがいる。



当時フランスのフリーメーソンはオカルト色が強かった。ボーデはこれを排そうとする。しかし、カバラの替わりに政治思想を、ヘルメスの大作業のかわりに暴力革命を持ち込もうとする彼らの思想ははなはだ不評であった。

『また、この時期、イルミナティのもうひとつのグループが、フランクフルト大学のカール・リッター教授に、共産主義のアンチテーゼを執筆させ、リッターの仕事はニーチェに引き継がれ、ニーチェ哲学はファシズムに、そしてナチズムに進展し、世界大戦を生じされることに貢献したとされている。』

★現在、イルミナティには少なくとも2つのグループが存在していると思われる。すなわち、ホワイト・イルミナティとブラック・イルミナティである。

というこは、イルミナティはグループが二方向に大きく分かれた。
⚫一つはフランス経由でオカルティックになっていく。暴力革命思想に発展したのもこちらだ。
⚫もう一つは共産主義であるか??レーニンやレーニンのソ連内閣でフリーメイソンだったユダヤ人達が殺されて行ったのは??


【イルミナティ 悪魔の13血流―世界を収奪支配する巨大名家の素顔】
 フリッツ スプリングマイヤー( Fritz Springmeier)氏の著作「イルミナティ 悪魔の13血流―世界を収奪支配する巨大名家の素顔」( 太田 龍(翻訳)は、イルミナティ 悪魔の13血流として次を挙げている。

アスター家、バンディ家、コリンズ家、デュポン家、フリーマン家、
ケネディ家、李家、オナシス家、ロックフェラー家、ロスチャイルド家、
ラッセル家、ファン・ダイン家、

「聖なる」ダビデの血流を挙げている。
周辺の二家としてレイノルズ家、クルップ家を挙げている。

 次のように述べている。「あらゆる機会を通じて、一般人を取り込まねばならない。それは主に教育によって達成される。そして、開放的で心のこもった振る舞いによって、彼らの偏見に対する謙虚さ、大衆性、寛容を示す。そんなものは、都合のよいときに捨ててしまえる。あらゆる方法を使ってわれわれの思想を浸透させねばならない。そのためには、若い文筆家の助けを借りて一般人に広めるのがよいだろう。一般人には人類に対する熱烈な関心を説き、それ以外のことに関心を払わぬようにさせねばならない」。



月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
保存資料 フランス革命前後の、イルミナティとフリーメイソン MONIQUE(モニッキ)のお散歩日記/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる